法話 花のような生き方

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5月に入りました。境内に咲く桜も散り新緑の季節を迎えております。

私がおります觀音寺には毎年様々な花が咲きます。先代の和尚は花が大好きでした。

春に咲く梅・椿・桜・ツツジ、初夏に咲くあじさい、紅葉の美しいモミジなど、30年以上の歳月をかけ、境内に様々な花を植えました。現在は、後を継いだ私が、花のお世話を引き継いでおります。

先月、私が先代の育てていたあじさいの苗木を地植えしておりますと、お寺に来られた方が私に声をかけてくださいました。

「わしはこの花の寺がめちゃくちゃ好きじゃけえ」

毎年のように花を見にいらっしゃる方なのでしょう。こんな嬉しい言葉をかけていただいて、苗木を植え続けて疲れていた私も疲れが吹っ飛んで元気をいただきました。

「百花春至為誰開(百花春至って誰が為にか開く)」という禅語があります。

春になると色とりどりの花が咲くけれども、花は誰のために咲くのだろうかと。

花は誰かのために咲こうとするのでしょうか。花は何のはからいもなく無心に咲いています。

それでいて、花の種ができ命を次世代に保存しながら、花の蜜に集まる鳥や虫の役に立ち、花を見る人の心をも和ませてくれます。

花は無心に咲くことによって、自分自身を生ききると共に、他をも活かしているのです。

しかし、私達人間は、なかなか無心に生きられません。

目で見るもの、耳で聞くものなどを私達の心に映し出す時、そこに何のはからいもなく無心に目の前のことに打ち込んで生きていけばよいのに、好き嫌い、損得、執着、貪り、怒り、様々な煩悩妄想が湧き出て、自らで苦しみ悩みながら生きております。

法事や坐禅会などでよくお唱えする白隠禅師坐禅和讃に「無念の念を念として謡うも舞うも法の声」という一節があります。

私達人間が無心になって歌う姿や踊る姿も仏の教えを立派に表現していると。

歌う人が、上手く歌おうとか、感動させようといった思いがあると素晴らしい歌は歌えません。

無心になって歌ってこそ、その人は自分自身を完全燃焼して歌い、見る人の心を本当に感動させるのです。

私達が、心に湧き上がる貪り、怒り、好き嫌い、損得などの煩悩妄想を振り払い無心になって頑張る時、目の前にいる人のために自分とか他人とか考えず親身になって仕事をしていく時、その姿は相手の人の心を動かし周りの人を元気づける素晴らしい生き方だと思います。

私に声をかけてくださった参拝者の方も、苗木を頑張って植える私を見て、励まそうとも思わず、無心に、思わず声をかけてくださっていたのかもしれません。真心から出る言葉は本当に元気づけられます。

私達が、一日一日を無心になって生きていく時、その生き方は自分のためにも他人のためにもなって、お互いが元気づけられる素晴らしい生き方になっています。

私達一人一人、それぞれの日々のつとめを一緒に頑張ってまいりましょう。

(「臨黄ネット」令和三年五月法話原稿 觀音寺住職)

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