座禅会 正月はめでたい?
新年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、厳しい寒さが続いておりますが、11日には坐禅会が行われ、14名の方がご参加くださいました。
参加者の皆様、ありがとうございました!
25分の座禅を2セットして、茶話会。
このたびも、やまだ屋さんから施菓をいただきました。
いつもありがとうございます。
茶話会では、お正月にまつわる一休さん(1394-1481)の話をご紹介。
お正月、京都の町の家々には門松が飾られ、お正月のお祝いをしておりました。
そんなお祝いムードのお正月に、一休さんはどこにお出かけかといいますと、なんと墓場。
お墓参りと思いきや、そのあたりに落ちていた髑髏(頭の骨)を拾って、竹の棒の先にさし京都の町中へと歩き出しました。
一休さんは、家々の門の所で竹棒にさした髑髏を差し出して、「御用心、御用心」と言って町中を歩き回ります。すると、人々は気味悪がって、家の門を閉めてしまいました。
その様子を見ていたある人が、こう言いました。
「一休さん、御用心とはもっともです。正月に祝って門松を飾っても、人間死ねば髑髏になります。しかし、みんながお祝いしている時に髑髏を持って歩き回ることはないでしょうに。」
すると、一休さんはこう言いました。
「いやいや、わしもお祝いにこの髑髏を見せて歩いているのじゃ。この髑髏ほどめでたいものはないのじゃ。見てみい。目が出て穴ばかり残ったのを 目出たし というのじゃ。人々、御用心じゃ。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことは一つもないのじゃ。」
こういうお話です。
一休さんは、お正月(昔は数え年で、皆が正月に一つ年をとる)にお祝いしている所に、めでたいものとは何かを教えてくれています。「死んで髑髏になったらめでたい」と言われました。「死んで髑髏になる」とはどういう事なんでしょう。
そう思った時にふと頭に浮かんだ歌があります。
「生きながら 死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき」
至道無難禅師(1603-1676)の歌です。白隠禅師の師匠のそのまた師匠にあたります。
「生きていながら死人のようになる」とは、これまで私達が生まれてから心の中に積み重ね作ってきたもの、好き嫌い・偏見・こだわり・などを一切捨て切った状態になることでしょう。
こだわりのない、とらわれのない心となれば、激しく移り変わっていくこの世でも自由自在に生きられる。そう至道無難禅師はおっしゃりたいのでしょう。
一休さんも、一切捨て切った状態を髑髏で表わして、この髑髏になってこそ本当にめでたいと言えるんだぞと人々に伝えたかったんだと思います。
今日皆さんが行った坐禅は、心の中に積み重なったものを出し切る作業です。息の数を数えることに意識を向けていくと、他の事を考えない状態になります。
好き嫌いといった色んな思いが私達の本来自由な心を縛っていきます。
そういう思いが出て来た時は、息の数を数えて、「ひとーつ、ふたーつ、みっーつ」と、心を無にして、自由自在に生活していきたいものですね。
このような話をいたしました。
今回が2014年の最初の坐禅会。
本年も観音寺坐禅会をよろしくお願いいたします!
筑紫の春(ツバキ)
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