座禅会 無念の念
12月も中旬に入り、寒さが厳しくなってまいりました。
紅葉も終わり、観音寺では早咲きの椿が開花しております。
夢 (ツバキ)
さて、今月の坐禅会の参加者は15名様でした。
お寒い中、ご参加ありがとうございました!
25分の座禅を2セットして、茶話会。
このたびも、やまだ屋さんから施菓をいただきました。
いつもありがとうございます。
茶話会の話は、白隠禅師坐禅和讃の言葉、「無念の念を念として」のお話。
この「無念」という言葉は、本来は残念という意味ではありません。仏教の言葉です。
禅宗では、「六祖壇経」という書物に出てまいります。
禅宗の教えは代々継承されますが、初祖達磨大師から数えて六番目に六祖慧能禅師がおられます。
その六祖慧能禅師の教えをまとめたのが六祖壇経です。その中にこういう言葉があります。
「無念を立てて宗と為し、無住を本と為す。」 禅宗は、無念を宗旨とし、無住を根本とすると。
「無念」とは「意識のない心」、「無住」とは「とらわれがないところ」。
六祖慧能禅師は、好き嫌い・損得といった物事を二つに分けて分別する心ではなく、
「無分別」のありのままの心で対象をみていく心(=無念)が禅の教えで、一瞬一瞬に意識がとらわれず、
過ぎ去ったものを思い浮かべない、束縛のないこと(=無住)が禅の根本だと説かれたんです。
皆さんに、明治時代の禅僧、原担山(はらたんざん)和尚の話をご紹介しましょう。
担山和尚が友人の僧侶と諸国行脚をしていた時のことです。とある小川にさしかかりました。
すると、着物姿の若い女性が小川を渡れずに困っております。
これを見た坦山和尚、すぐさま、「私が渡して進ぜよう。」と女性を抱きかかえ向こう岸まで渡しました。
そして、また友人と一緒に歩き始めました。しばらくすると、友人が我慢しきれなくなって怒鳴りました。
友人 「坊主が女を抱くとは何事か!」
坦山和尚 「女はどこにおる?」
友人 「さっき抱いたではないか。」
すると、坦山和尚は笑って言いました。
「君はまだ女を抱いておったのか。わしはあの時、全部おろして来たぞ。」
過ぎ去った事にとらわれた友人。僧侶の身でも女性を迷わず助け、過去にとらわれない坦山和尚。
無念と無住で生きる坦山和尚のエピソードです。
坐禅は、無念と無住になるための練習です。
坐禅中に出てくる妄想に付き合わず、念に念を継ぎ足さないように、息の数を数えることに集中します。
この坐禅で行った心を調える練習を日常生活に活かして、
好き嫌い・損得といった心を差し挟まずに人と接し、過ぎ去ったことに縛られず自由に「今」を生きていきたいですね。
このような話をいたしました。
次の坐禅会は来年です。来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます!
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