座禅会 本来のすがたで生きる

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お花見の時期は過ぎましたが、観音寺では遅咲きの桜が開花しております。

本日は、第2土曜日恒例の座禅会がございました。

初参加の方、3名を含め、14名の方がご参加くださいました。

ご参加いただき、ありがとうございました。

そして、いつものように25分の座禅を2セットして、茶話会です。

本日の話は、白隠禅師坐禅和讃の一節から「無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず 」の話。

“姿の無い姿”という本来の姿で生きれば、どこに行っても、本来の自分(何のとらわれもない仏さん)の場所となると。

人それぞれ、姿は確かに違いますが、それはご先祖さんや様々なご縁で今このような姿をしているだけで、一時的な姿があらわれているに過ぎません。

私達の本来の姿は、一時的な姿に限定されない“姿のない姿”をしております。

自分の今の仮の姿にとらわれずに、自分を忘れ切って生きていく時、本来の仏さんの生活がひらけてくるのだといわれているのでしょう。

臨済宗の宗祖、臨済禅師の言葉にもこうあります。

「随処に主となれば、立処みな真なり」

どこへ行っても主になり、主体性を失わず、主人公になっていけば、その人の行動は間違いのない真実のものだと。

主体性とは、自分勝手ということではなく、自分を忘れ切ったところから出てくる本来の働きです。

自分を忘れ切って自分が無くなると、みんなが自分と思える、相手と同じ気持ちとなったところから出てくる働きは、素晴らしい働きとなるのではないでしょうか。

本来の姿で生きていく人生を送りたいものですね。

このような話をいたしました。

それでは、また来月も坐禅会をよろしくお願いいたします!

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2 Responses to “座禅会 本来のすがたで生きる”

  1. ヒグチ より:

    今回のお話を聞いて、知り合いの保育士に聞いた話を思い出しました。
    子供と遊ぶとき「遊んでやっている」という気持ちは伝わりやすいので、
    童心になりきり本気で楽しむと一番子供が喜ぶのだそうです。
    禅僧の良寛さんも手毬で子供と夢中になって遊び、かくれんぼも本気で見つからないようにしてたとか。
    相手が誰でも居丈高にならず、自分を忘れ切って接しようと思います。

    • 住職 より:

      コメントありがとうございます。
      保育士さんは、楽しむ時は童心になって一緒に楽しむ、子供さんと接するプロですね。
      良寛さんも、厳しい修行をして悟りを得てもそれも忘れて、自分も子供となって遊ぶ禅僧でした。
      私も、良寛さんのように、相手と一つとなった接し方をしていきたいと思っています。

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