座禅会 どこへ行っても我が家

9月に入りましたが、厳しい残暑が続いております。
朝晩少し厳しい暑さが和らいできたことに秋を感じます。
境内の芙蓉や酔芙蓉も次々に開花いたしました。
芙蓉(ピンク)

酔芙蓉(白からピンクへ変化)

さて、本日は、第2土曜日で、恒例の座禅会を開催いたしました。
今回は、初参加の方3名を含め、17名の方がご参加くださいました。
ご参加いただきまして、ありがとうございました!

25分の座禅を2セットした後、お話をさせていただきました。
本日のお話は、白隠禅師坐禅和讃と趙州和尚の問答の話。
白隠禅師坐禅和讃の一節にこうあります。
「無相の相を相として 行くも帰るも余所(よそ)ならず」
無相の相とは、姿のない自分(無相の自己)が姿のある自分(有相の自己)を生きていること。
本来の自分(=仏心)が有相(肉体があり、老若男女、夫妻親子兄弟、職業立場)の自分を生きている。
その無相の自己(仏心)が活き活きと働いていれば、どこへ行っても、よそではない。
どの場所も、自分の場所、自分の家、自分と関係がある場所となる。
家で夫が妻を、親が子を思いやるように、どこへ行ってもそこにいる人・場所を大事に思う。
このように、白隠禅師は、無相の自己が働く様子を教えてくださっています。
中国の唐の時代の禅僧、趙州和尚の問答にもこんな問答があります。
1.道場
修行僧「道場とは何ですか。」
趙州和尚「あんたは道場から来て、道場から出ていく。そっくり道場である。どこにそうでない処があろうか。」
2.仏の煩悩
修行僧「仏は誰のために煩悩するのですか。」
趙州和尚「すべての人のために煩悩する。」
修行僧「どうしたら免れることができますか。」
趙州和尚「免れてどうするのだ。」
趙州和尚は、私達は、本来持っている仏心を、どこへ行っても活き活きと働かせて生き、その場所にいる人々を自分の家族のように思い、一緒に喜んだり、悲しんだりしながらも、仏心を見失うことなく、その時その場所を目一杯生きていけばいいと教えてくださっているのではないでしょうか。
私達も家にいる時に家族を思いやることは勿論ですが、お店へ行けば店員さんやお客さんを、旅先ではそこの土地に住まわれている方々のことを思いやって、どこへ行っても家族のような思いやりの心(仏心)を忘れずに過ごしていきたいものですね。
このような話をいたしました。
お話の後、参加者の皆さんには、お茶とお菓子をお持ち帰りいただきました。
来月の座禅会も是非ご参加ください!


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