座禅会 一如の気持ちで

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9月に入り、朝夕涼しく感じるようになりました。

8月までの厳しい暑さも終わり、過ごしやすい季節となってまいりました。

さて本日は、第2土曜日で、毎月恒例の坐禅会が開かれました。

今月は、初参加の方5名を含め、27名の方がご参加くださいました。

雨の降る中、たくさんのご参加をいただき、ありがとうございます!

そして、いつものように25分の座禅を2セットして、茶話会です。

本日の話は、「一如」という仏教の言葉。

一如とは、一つの如くと読めます。

全ての物は別々のように見えますが、全ては網目のようにつながっている。

他の物から切り離されて独立した物はこの世界に一つもない。

仏教はそんな世界観を持っています。

江戸時代の禅僧、良寛さんの詩にこんな言葉があります。

「花、無心にして蝶を招き、蝶、無心にして花を尋ぬ」

花は蝶に蜜を与えながら、蝶は花粉を運んでいる情景。

無心に生きながら、お互い、活かしあっている姿が表現されています。

私達人間も、自然の一部、自然と一体、他人と一如という気持ちを持って、

対立したり否定したりするのではなくて、活かしあうように生活したいですね。

このような話をいたしました。

暑さも和らぎ、坐りやすい季節となりました。

また、来月の坐禅会も是非お越しください!

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3 Responses to “座禅会 一如の気持ちで”

  1. ヒグチ より:

    この日の法話で仏教の『三本柱』、
    ・世の中の事象は常に変化している
    ・自分という独立した存在は無い
    ・この世は全て苦しみ
    を教えて頂き、上記の二つはすぐに直感で理解できました。
    しかし、三つ目の部分で、この世は苦しみが多いのは分かりますが、
    楽しいこともあるので、どういう考え方で苦しみとなるのかと不思議に思いました。

    • 副住職 より:

      コメントありがとうございます。
      坐禅会で、仏教の考え方、無常・無我・苦という三つをお話ししました。
      この中の、「苦」という教えは、なかなか理解しづらいですね。
      普段の生活では、「苦しい」ことも多いですが、「楽しい」と思う時もあります。
      ただ、楽しいと思えるのは、自分が何かを得た時、自分の欲が満たされた時に感じます。
      しかし、自分の得た物(家、車、お金など)は、得た瞬間から、失いたくないという心配事、もっと欲しいという不満となります。
      五感(眼・耳・鼻・舌・身)で感じる幸福感も、長く続かず、その後に、「むなしい」「満たされない」という思いになります。
      このような「現在の私達の心」では、結局は苦しみから逃れられないので、仏教では、「苦」と言っています。
      そのために、苦の原因である渇愛(喉が渇いて水を求めるような欲求)、無明(無常・無我といった真理を知らない)をなくすことを勧めるのが仏教です。
      ・無常(この世は常に変化している)
      ・無我(自分も自分の持っている物も、この世の全てのものは、他から独立したものでなく変化していくもので、独立不変のものは実在しない)
      これらの真理を知って、「欲」が起こる縁となる自分の「執着」を離れることが、「苦」をなくすこととなり、「心の安らぎ」へと到る。
      これが仏教の基本的な考えですので、「無常」「無我」「苦」が三本柱とお話しした次第です。
      難しい説明になってしまったかもしれません。
      また、坐禅会でよろしくお願いいたします。

  2. ヒグチ より:

    楽しいと感じた中に苦しみが隠れているという事実は、言われて見れば当たり前のことですが全く気付きませんでした。
    詳しい返信、ありがとうございました。

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