座禅会 臨済禅師の若き頃
新年を迎えました。
改めまして、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さて、本日は、第2土曜日恒例の座禅会がございました。
初参加の方、4名を含め、15名の方がご参加くださいました。
お寒い中、お越しいただき、ありがとうございました。
そして、いつものように25分の座禅を2セットして、茶話会です。
本日の話は、今月10日がご命日の臨済禅師(臨済宗の宗祖)の話。
臨済禅師は若い頃、師匠の黄檗和尚の下、修行に励んでおられました。
ある日、首座という最も修行を積んでいる修行僧が、非常に真面目に修行している臨済禅師に声をかけました。「黄檗和尚の所へ行って、『仏教のぎりぎりの精神は何ですか』と聞いてみなさい。」
臨済禅師は、黄檗和尚に質問をすると、その質問がまだ 終わらないうちに、棒で何度も打たれてしまいました。結局、三度質問して三度とも棒で何度も打たれてしまいました。
すっかり落ち込んだ臨済禅師は首座に言いました。
「せっかく黄檗和尚の所へ行かせていただいたのですが、私には分かりませんでした。ここを去ろうと思います。」
臨済禅師が別れの挨拶に行くと、 黄檗和尚は言いました。「兄弟弟子の大愚和尚の所へ行きなさい。おまえのために言ってくれることがあるだろう。」
さっそく大愚和尚の所へ行って黄檗和尚のことを伝えました。
「『仏教のぎりぎりの精神は何ですか。』と質問すると、三度とも棒で打たれました。私に落ち度があったのでしょうか。」
すると、大愚和尚は言いました。「黄檗和尚が老婆のような慈悲でくたくたになるまで導いてくれておるのに、こんな所まで来て、自分に落ち度があるのかというのか。」
ここで、臨済禅師は「黄檗和尚の教えはそんなことだったのか。」と気づきました。
無心になって修行している臨済禅師を何とか導こうと、首座が黄檗和尚との橋渡しをして、黄檗和尚の「仏教の大精神」をこめた痛棒を味わい、それでも気づかなった臨済禅師に、黄檗和尚が大愚和尚ならと思い、大愚和尚の一言でようやく黄檗和尚の心(仏教の真髄)がはっきりと分かったのです。
臨済禅師もこんな若い頃があって、とらわれのない自由な心となったんです。
そんな臨済禅師が修行僧たちに向けた言葉にこんな言葉があります。
「外に求める心をやめれば、仏さんだ。」
周りを見てあの人はいいなあと、幸せを外に求めるのではなく、その外に求める心がおさまった時に、自分をしっかり生きていける「仏さん」になれるんだと言われているのでしょうね。
今年一年も、自分をしっかり生きていきたいですね。
このような話をいたしました。
それでは、本年も坐禅会をよろしくお願いいたします!
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