座禅会 牛牧いになる

Pocket

5月に入り、新緑の季節となりました。

境内のあじさいも青々とした葉を伸ばして、開花の準備に入っています。

さて、本日は、毎月恒例の第2土曜日の坐禅会が開かれました。

今月は、初参加の方2名を含め、16名の方がご参加くださいました。

ご参加いただきまして、ありがとうございます!

そして、いつものように25分の座禅を2セットして、茶話会です。

本日の話は、馬祖和尚とその弟子の石鞏(しゃっきょう)和尚の話。

馬祖和尚(709-788)は、中国唐の時代の禅僧です。

臨済禅師の師匠の師匠の師匠にあたり、80名以上の優秀な弟子を育てました。

その弟子の中に石鞏和尚がいます。この方は、もともとは狩人でした。

狩人だった頃の石鞏和尚が、鹿を追って、馬祖和尚の庵に通りかかりました。

石鞏「和尚さん、私の鹿が通るのを見ましたか?」馬祖「お前さん、誰だ?」

石鞏「私は狩人です。」馬祖「お前さん、射れるのか?」

石鞏「射れます。」馬祖「一本の矢でどれだけを射るのか?」

石鞏「一本の矢で一匹です。」馬祖「お前さん、全く射ることができんな。」

石鞏「和尚さんは射ることができるのですね。」馬祖「わしは射ることができる。」

石鞏「一本の矢でどれだけを射ることができるのですか?」馬祖「一群を射る。」

石鞏「あれ達も私達も生命あるものです。どうしてあれ達を射るのですか?」

馬祖「お前さん、そうだと分かっているなら、自分を射たらいいじゃないか。」

自分を射る、一本の矢で一群を射る。

これは自分の中にある様々な煩悩、苦しみの根本を断ち切るということ。

馬祖和尚の言葉に心を動かされ、石鞏和尚はこれを機に出家します。

ある日、修行中の石鞏和尚が台所で作務をしていると、馬祖和尚が声をかけます。

馬祖「何をしているのか?」石鞏「牛を牧(か)ってます。」

馬祖「どのように牧うのか?」

石鞏「牛が一度草むらに迷い入りますと、いきなりぐっと鼻ぐらを引き戻します。」

馬祖「お前は本当の牛牧いだ。」

牛とは、やはり自分自身のこと。

作務をしている時も、常に自分が仏さんの心から離れないように制御する。

日常の労働の中にも、坐禅の時の穏やかですっきりとした心を継続する大切さ。

馬祖和尚と石鞏和尚の問答で、禅の生活が学べます。

私達も、坐禅で落ち着いた心を日常でも継続して、しっかり牛牧いをしましょう。

このような話をいたしました。

さて来月は、10日(日)から、あじさい祭りが始まります。

境内のアジサイが次々と開花している頃です。

座禅の前後に散策してみて下さい。

また、来月の坐禅会も是非お越しください!

美方八重(みかたやえ、ヤマアジサイ)

Pocket

2 Responses to “座禅会 牛牧いになる”

  1. ヒグチ より:

    このお話を最初に聞いた時は全く意味が分かりませんでしたが、考えるうちに何となく自分なりの解釈がまとまりました。
    解釈が間違っていましたら、ご指摘頂ければ幸いです。
    ・『鹿を射る』という事は『鹿の自由を奪いたい』という欲を満たすこと。
    ・これに比べ、自分を射るとは欲をコントロールする事の比喩で、これはすでに欲を満たした状態と変わらない。ゆえに例え一群れの鹿を射った状態であろうとも同じ心の状態。
    ・後半の台所での話は、牛は人の欲を抽象化したもので、石鞏和尚は常に自分自身の欲を見張っているという返答。

    以前、テレビかラジオで曹洞宗の住職がおっしゃっていたことですが、
    「自由とは、何時でも自分のワガママが通せる状態ではなく、何時でも自分自身の欲を克服できる状態です。」
    という話を思い出しました。

    • 副住職 より:

      コメントありがとうございます。
      禅話には色々な解釈・表現ができますので、間違いということはないと思います。
      よくいわれる解釈ですと、命の尊さに気づきながら生活のために狩りを続ける石鞏に、
      馬祖和尚は、自分に矢を向けよ、自分自身の沢山ある煩悩の根本を射抜けと導いたというものです。
      根本を射抜けば、つまり、本来の仏の自分をはっきり自覚すれば、迷いは全て晴れるというのを、
      一つの矢で一群を射ると表現したという解釈です。
      後半の話は、「十牛図」(廓庵師遠禅師)で考えると分かりやすいのではと思います。
      人間が本来持っている仏性を「牛」に例え、牛を探すところから始まり、牛を見つけ、それを飼いならすという流れ。
      十牛図の五番目の図が「牧牛」で、自分の仏性をはっきりと自覚して、悟りを開いた後、その自分をよく飼いならす段階。
      牛の鼻づなをしっかりとつかまえ、正念(無心)からはずれないように、妄想がわいても相手にせず、正念を継続していく。
      これが牛を飼う「牧牛」の段階です。
      曹洞宗の和尚さんが言われた「自由」の定義は分かりやすいですね。仏教の自由は、心が安らかな状態です。
      一般的な自由の意味と仏教での自由の意味の違いを簡潔に説明されています。
      また、坐禅会でよろしくお願いいたします。

コメントを残す

CAPTCHA


このページの先頭へ